THE LAST PENGUIN...

日々考えたことや誰かの役に立ちそうなことを書きとめておこうと思います。

シンガポールで実際にメイドを雇ってみて感じたことや気持ちの変化、考えるべきポイントなど

日本でも昨今、外国人の家事代行が解禁されているようだが、シンガポール、香港、マレーシア等のアジア諸国でもメイド雇用は一般的だ。
メイドを雇ってよかったかといえば、良かったと思う。だがその理由は単純に家事から解放されたから、という一言で表現するには物足りなく思う。雇用前には想像していなかった経験も多くあったし、やはり人から聞く話、ネットで読んだ事、と自分の体験は必ずしも同じではなく、体験してみて初めて理解した事も多かった。メイド雇用における社会的背景や家庭の事情、雇用に関する手続きなどについての記事は多いので、今日はメイド雇用を実際にしてみたメリットや感じたことなどをつらつら書いてみたいと思う。

 

 

メイド雇用の経緯など

 我が家では、日本に住んでいた頃から私(妻)が比較的時間の融通のきく仕事をしているので家事と育児の8〜9割は私が担当してきた。
シンガポールに来てから、しばらくして仕事が忙しくなりメイドを雇うことにした。2年弱で仕事が落ち着いたため、メイドの雇用を中断して現在に至っている。

雇用前に考えたこと ー子供に対する影響

メイドを雇用するにあたり、考えたのが子供に対する影響。うちの家事を母親/父親がやらずに他人にやらせる姿を見せることに加え、生活レベルや待遇の違い、例えば体を横にして眠るのがやっとのスペースしかないメイド部屋で過ごす様子を見て子供がどう思うのか、などが気になったし、私達のメイドへの接しかたも考えなければならないと感じていた。
しばらく考えて思ったことは、「それらは見せたくない、隠したい現実なのだろうか。」ということだ。いづれ子供はこの世界で親元を離れて生きていくのだ。例えまだ子供でも、現実を見て体験しそれについて考えること、そして自分の考えや意見を持てるようになることの方が大事なことなのではないかと思うようになった。

メイドの雇用を始めてから感じた、メリットとデメリット

さて、そんな中メイドのいる生活が始まった。朝起きれば、子供が片付けきれなかったおもちゃは綺麗に片付いているし、洗濯ものもきちんと畳まれている。家事からの解放!!仕事や自分のための時間が確保できるのは何にも代えがたい。
そして子供がいれば、突発的な発熱があったり、逆に自分が具合が悪くて子供の世話ができなくなる事があるが、そんな時、パートタイムのヘルパーは予約なしにすぐに来てくれる保証がないのに対し、住み込みのメイドなら同居の家族に依頼するのと同じ気軽さで代行を頼む事ができる。小さな子供のいる家庭にとって、住み込みメイドの一番のメリットは、この突発的な所用の発生に対する安心感ではないだろうかと思う。

一方で感じたデメリット。幸いなことに、うちに来てくれたメイドは、シンガポール滞在経験も長く、生活を共にするにあたって信頼のできる人だったので何かを盗まれたりお金のトラブルなどはなかったし、お願いしたことは最低限きちんとやってくれたから大きな不満ななかったのだがデメリットも多少はあった。

まず感じたことは、「あー、運動不足!」家事って結構体力使うのだ。洗濯物を干すのだって、何度も腰を曲げたり背伸びしたり。それに床拭きは腰痛持ちには立派なリハビリになる。特に通勤をせずに自宅で仕事をする私から家事を取り上げると、一日中パソコンの前で座ったままになりかねない。多少の家事はストレス解消にも必要だと感じた。でもそれは翻って、趣味程度に家事をすればいいということだからそんな贅沢なことはないのだけれども。

食事のための買い出しもメイドの仕事。ただ、貧乏性の主婦としては、その日スーパーで手に入る「安くて新鮮な食材」を生かしたメニューにしたいところ。自分でスーパーに行けば、「仮に今日は〇〇が食べたいな。」と思ってもその食材が高かったり、新鮮ではなかったりしたら、それはまた今度にして・・・と、かなり臨機応変な対応をしているものだが、人に頼むとそうはいかない。できるだけ献立は彼女に任せてはいたものの、あまり任せっきりだとマンネリする。でもやっぱり食材を自分で見ないことには、献立を決められない。ちょっとしたことだが小さなストレスになった。これが日本であれば、日によっての価格差や鮮度など大した問題ではないのだが、ここはシンガポール。同じ食材でも産地等によって価格は何倍にもなるし、痛みかけたものだって平気で売っている。買う側が注意深くなる必要が結構あるのだ。

まあ、そのような不満は得られるメリットと比較すれば不満と言えるほどのことではないのかもしれない。人に依頼するという点で、ある程度の割り切りは必要だろう。ただ、そんなことを考えながらメイドのいる生活をしていると、今まで自分でやるのが当たり前であった家事の中にも能動的に関わりたいものとそうでないものがあることをより強く意識するようになる。ここは譲れない、とか自分でやりたい、と感じる部分についてはもはや効率の問題ではないのだろう。効率重視でこなす仕事と、自分でやることに価値を見出せる事がクリアになったのは、メイドを雇う事で得られた発見だった。

文化の違いを体験する機会。「ちゃんとした日本人」ってなんだ

メイドを雇えば当然彼女との共同生活が始まる。いや、共同生活などというと同じ屋根の下でプライバシーを守りつつの生活を思い描くが、メイドに身の回りの事を任せるということになれば、プライバシーなどはギリギリまでないも同然だ。
日本人同士であっても血のつながりもない他人とそのような近い距離で生活をする機会はそうそうないのに、彼らは外国人。当然そこでは様々な行き違いだって発生する。
例えば、日本人同士でよく会話にのぼる「フツー、そうするよね」「フツーはさ〜。」というのがあると思うが、あの「普通は」に対して、「そうだよね」と思えるのは、言って見れば「日本人同士である証」。私などは、時に同調圧力ともなるそれがあまり好きではなく、「フツーって何?」と(心の中で)思うことも少なくないがそれでも相手の言わんとしていることはだいたい想像がつくものだ。
当然その「フツー」は、メイドさんとは全く共有できない。

わかりやすい例を挙げると・・・
ー使った雑巾は、お団子状のまま置いて(干して?)ある。→フツー、絞ってから干すよね。カビ臭くなるし。
ー夕食にほうれん草のクリーム和え(のようなもの)を作ってくれた。ちょっと淡白な味だな、と思ったもののそのままいただく。翌日少し水分が飛んだ状態の残り物をいただいた際に、それが「白和え」であったことに気づく。→豆腐の水、切らなかったんだ、、(というかそう教えたんだが。そしておそらく茹でた後のほうれん草も絞ってない。)
ーいただいたラーメンを茹でてくれた。が、その他の具の用意を麺を茹でてからするので、食べる時には麺は伸びきっております。→フツー・・・。いや、事前に教えなかった私が悪いか。フィリピンでは麺食べないのかなw。

そんなことをあげつらったらきりがないが、こと料理に関しては、「フツー・・・」が頭の中をぐるぐるすることがよくあった。一度作って教えた料理ですら、同じ料理とは思えない状態で出てくることの方が多いので、根気よく教え込むのを諦め、結局メニューはお任せして彼女の得意料理をいただくことの方が多くなった。その料理が本来どんな味、見た目、食感なのか知らなかったら、出来上がったものがおかしいかどうかだってわからないのは当然だ。作り方までは知らなくとも、その料理の味を知っているっていうのは大事なことなんだと、改めて思い知った次第。
よく海外で日本食レストランを開店する際の苦労話として現地スタッフの教育の話などが出てくるが、それも同じ話だろう。そして海外で暮らすようになると「”日本人である”とはどういう事か」とか「子供に伝えるべき”日本の文化”って」ということを考える機会によく遭遇するのだが、こんな所にも一つの答えがあるように感じた。

 

メイドの雇用をやめて感じたこと ーメイドとの関係性や距離感について

2年ほどのメイドのいる生活の後、私の仕事が落ち着いたために契約を継続するのをやめることにした。
メイドがいなくなった後、単純に家事を自分でまたやらなければならなくなることに少し不安もあったが、意外にもそれには2週間もすれば慣れてしまった。
一方で、2年間家族のように生活を共にしたメイドがいなくなってしまいやはり寂しい気持ちになった。例えば、昼食は毎日二人で食べていたのでそれなりの会話もするようになっていたが、お昼ご飯を食べながらの話相手もいなくなってしまったのだ。私ですらそんな気持ちになったのだから、子供だってきっと一緒だろう。うちでは子供の世話は私が自分ですることが多かったが、家庭によってはメイドはもはや母親代わり、というのも良く聞く話。私の知人の中にも、母よりもメイドになついている子供は何人かいるが、そのような関係性の中で突然メイドがいなくなってしまえば、子供への影響は計り知れないだろうと思う。
数年前にシンガポールのNGO団体が、その家庭の子供についてより深く理解しているのはどちらか、メイドと母親に様々な質問をした結果、半数以上のメイドが子供の母親よりも正しい回答をした、という様子を動画として公開し、ずいぶんと話題になった。こちらの動画に込められたメッセージはそれほど単純ではないだろうが、住み込みでメイドを雇うということについて、考えさせられるものだった。

きちんと距離と持って接する、とはどういうことか

家族のように一緒に過ごしているのに、家族でも友達でもないメイド。戸惑うのは子供との関係性のみならず、彼らのプライベートな問題や悩みがあるたびに、どこまで立ち入っていくべきか考えさせられることも多い。少しでも踏み込もうと思えば、彼らの属する社会や経済的背景とのギャップを目の当たりにする。それらを鑑みた上で自分たちにできることなんてそうそうあるものではなく、気持ちの上で寄り添うくらいが関の山だがそれとて伝わることが当たり前ではない。

また、メイド雇用時に悩ましい問題として、管理の問題がある。シンガポールではメイドが起こした問題は雇用主に責任が問われる。失踪した場合などにも同様だ。また、メイドが通常取得するワークパーミットでは家族の帯同が認められていないので、半年に一度の健康診断で妊娠がわかれば強制送還となるが、そういった費用も全て雇用主が負担する。つまりメイド雇用には、日本人が一般的に考えるところの、雇用する側とされる側以上の責任が発生するのだ。
結果として、雇用主はメイドのパスポートを預かり、仕事が終了した後でも門限を決めて夜の外出を制限する、といった対応が一般的になる。こういった対応に対し、特に欧米出身の外国人は強い違和感を覚えるようだ。「責任を負う以上管理せざるをえない。」という意見に対し、ある欧州出身の知人は言った。「メイドであろうと自分の時間に何をしようと自由であるべきだ。その結果妊娠をしてしまったとしても、彼女にはそうする権利があるし、それが人生ってもんでしょ!」と。管理方法を含め「正しい距離感を保つ」ということについて正解はない。実際には、電気もないミャンマーの山奥から来た人から、シンガポール在住歴10年以上のベテランまでいるのだから、相手の性格や個別の事情を踏まえて考えるしかないだろうが、何だか気持ちの良い意見だった。

家事は無駄な仕事なのか

メイドがいなくなり、再び自分で家事全般をやるようになって感じたのは、「これは自分でやらなきゃいけないことなのか?」「これにこんなに時間を費やしてもいいのだろうか?」ということ。またもや貧乏性というか横着?な話なのだが、「もっとやるべきことがあるんじゃないだろうか」(またはもっとのんびり自分の時間にした方が。。。)など、家事に時間を費やすことに価値を見出せなくなったような気がしてやや悩んだ。子供の世話などというのは別にして、洗濯や料理の準備にも結構な時間がかかるものだ。私は好奇心が強くなんでもやりたがるタイプなので、時間があればやりたいことは山ほどあるのだ。(やり抜くことができるかは別問題・・・。)
そんな中これまで当たり前だった「家事に時間を割く」ことの是非。これまで「より効率的にこないしたい家事」だったものは「自分でやってはいけない家事」であるような気さえしてきた。

最後にオススメしたい事

外注できる家事があるなら、そして外注費用が捻出できるならまずは一度してみる事。その上で自分でやるべきかどうか考える。一度外注した経験があれば、どんな時にどんな風に人に任せるべきなのか、またその家事に対して自分がどんなこだわりや思い入れを持っているのか等、的確な判断ができるようになると思う。費用の観点も含めて、「こんな事なら最初からお願いすれば良かった。」と思うかもしれない。最終的にやはり自分でやろう、という事になったとしても、誰かに依頼する経験なく、心理的なハードルを抱えたまま、あるいは無理して自分でこなしていくよりもよほど前向きに家事に取り組めるようになるのではないだろうか。